
松尾佑介の才能は、埋もれて消えかけていた。
浦和のジュニアユース、ユースと歩んだが、いずれもチーム内序列は後ろから数えた方が早かった。トップ昇格どころか「有名大学のオーディションすら受けられなかった」と松尾。仙台大へ進路を定めたのは、「関東だと埋もれかねない」という周囲の親心と、誰も自分を知らないまっさらな場所で再スタートを切りたいという本人の思いからだったという。
第一印象でのとっつきにくさで損をするタイプ。大学時代を見守った仙台大監督の吉井秀邦にはそう映った。ユース時代は体重57キロほど、ヒョロヒョロの見た目は「戦えない」「弱そう」とのレッテルを貼られがちだ。ハキハキとあいさつする、昔ながらの体育会系とも言いがたい。大学選手によくいるタイプからすれば枠外で、「何を考えているかはっきりしない宇宙人」とのニックネームがついた。
それでも、松尾を横浜FCへスカウトした増田功作(現専修大テクニカル・アドバイザリーコーチ)は、練習場へと送る車中で腹を割って話した際の「しっかりしたサッカー観」が印象に残っている。なぜプロになるのかの心構え、将来像。シャイだけれども、芯には熱いものが通っている。
東北リーグで25得点しても、J2山形との練習試合で松尾だけは遜色なく戦えても、Jリーグ勢からの評判となるとなぜか芳しくなかった。めぼしい誘いが届かぬなら、つてを頼り海外へ挑戦させることまで吉井は考えた。浦和ユース時代も、メキシコへ遠征すると当地の指導者から絶賛されたらしい。欠点があり完成してはいないが、違う評価軸で見る人が見れば、この異才にはピンとくるはずだ、と――。
松尾はスポーツ特待生で入学していない。「プロになるために大学にきました」と面談でまなじりを決したら、「大学は学びの場です」と気勢をそがれた。ともあれ本人には、プロになるとの決死に似た覚悟があったということ。専任トレーナーのつく充実した施設で体をつくり直すとともに「自分の体を客観的に把握できた」。スピードを生かすすべを体得し、ゴールの味を占め、「チャンスを仕留めないとモヤモヤしてくる」といった得点への飢えも芽生えた。
高校ではサブ組でも、大学で場を与えたら急に伸びる選手がいる。「いいものを持っているけど弱点もあるという選手が、4年のうちに弱点が薄れ、さらに長所が芽吹いて弱点を少しずつ補完していくようになる」。大学サッカーの現場で吉井は実感するという。10代で活躍するプロがいるのが世界標準である一方で、10代では完成しない原石だってあるだろう。「セカンドチャンスを許容できる余裕があれば、いい選手はまだまだ出てくる」
松尾もまた、そんな懐深い日本の育成プールによって救われた一人だった。=敬称略
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Source: サムライ ゴール